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高崎市
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多胡碑


高崎市にある指定文化財 国指定

多胡碑
多胡碑
多胡碑

那須国造碑(700年 栃木県)、多胡碑 (711年)、多賀城碑(762年 宮城県)は日本三古碑と呼ばれる。また、山上碑(681年)、多胡碑、金井沢碑(726年)は上野三碑と呼ばれる。多胡碑の碑文「片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成」のところが続日本紀和銅4年3月辛亥の「割上野国甘良郡織裳、韓級、矢田、大家緑野郡武美片岡郡山等六郷別置多胡郡」と一致すること、つまり三百戸が六郷から成り立つこと、これは当時の制度(養老律令)が実行されていたことを示している。このことから、多胡碑は建郡の記念碑とされているが、碑文の構成・内容から種々の問題点が指摘されている。

 

(1)碑文「三月九日」と続日本紀「六日」とのずれ。
(2)郡名の記述順が異なる。
(3)「給羊」の解釈。羊の人名説
(4)碑文と符との関係
(5)弁官以外の人名
(6)尊とした理由などがある。

 

多胡碑の名が現れたのは1509年の連歌師宗長による『東路のつと』が最初である。下仁田の高橋道斎(1718〜1794)が江戸の学者東江源麟(とうこうげんりん)と拓本にとった。『山吹日記』には、作者奈佐勝皐(かつたか)が天明6年に多胡碑を訪れた頃、領主長崎弥之助が名主に命じて拝殿を造り、拓本を取ることを禁じていたこと、こがね百匹でまずい拓本を買えと言われたことなどが記されている。

そのほか、半化房(はんかぼう)『俳諧多胡碑集』 市川寛斎『金石私志』 松平定信『集古十種』 狩谷液斎(かりやえきさい)『古京遺文』 伴信友『上野三碑考』などに紹介され、研究されている。現代では元群馬大学尾崎喜左雄博士の研究をもって集大成されたと言ってよいであろう。
保護の面では、初代群馬県令楫取素彦(かとりもとひこ)(吉田松陰の義弟)が、地元有志の協力を得て境内を整備し、国に寄付した。 現在国有地となっている。

国指定特別史跡 昭和29年3月20日指定

(国指定史跡 大正10年3月3日指定)

地図(地図情報システム)


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