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第4回中央・北・南小学校の発足

ページID:0005284 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第4回写真
明治42年中央小秋の運動会

旧市内の三つの小学校が、中央、北、南の校名をつけて発足したのは、高崎が市となってから2年後の明治35年(1,902年)4月1日のことでした。高崎市内における小学校のスタートは、この年から30年ほどさかのぼります。国から「学制」が出された翌年の明治6年5月12日に第12番鞘町小学校が私立の積小学館跡に設立されました。これが市内公立小学校の第1号です。旧市内では翌7年までの間に7校が設立されますが、校名の上に小学区を示す番号を付けたのが特色です。この8校のうち、6年6月2日に設立されたのが第15番高崎小学校(大手前の旧藩撃剣場にあり、翌年大信寺へ移転)でした。この学校が他の7校を吸収、合併し、校名を変えていきます。その経過をみると、明治6年から35年までの間に、第15番高崎小学校、第1番高崎小学校、高崎小学校、高崎第1小学校、西群馬第1小学校、西群馬第1尋常小学校、高崎第1尋常小学校、高崎尋常小学校、そして高崎中央尋常小学校と、めまぐるしく校名が変わっています。この間、明治10年、校舎は旧石上寺跡(今の東京電力)に建てられ、翌11年には男女別学とし、高崎女児学校を旧藩文武館跡に設立していますが、後の22年には高崎尋常小学校に吸収されました。また19年には高等科が設けられて、男子校(新町大黒屋跡)と女子校(女児小学校に併設)が設立されました。

明治30年代に入ると特に旧市域の東部、東南部で人口、就学児の増加が著しく、明治32年度末には高崎尋常小学校では30学級、出席児童1,491人(一学級50人)とマンモス校になり、「就学督促ノ方法ハ別ニナシ即チ校庭狭隘ニシテ児童ヲ入レル余地ナシ」(学事年報)といった状態でした。そこで市は33年、北分校を請地町(北小の現在地)と赤坂町の長松寺に、南分校を若松町に設置しました。この両校が2年後の35年に独立して高崎北尋常小学校、同南尋常小学校となり、もとの高崎尋常小学校は高崎中央尋常小学校となりました。なお南小は明治43年八島町に、中央小は大正12年常盤町の現在地に新築移転しています。

(鈴木重行)