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第22回岩鼻火薬製造所と軽便鉄道

ページID:0005140 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第22回写真
岩鼻火薬製造所事務所(現在日本化薬(株)が使用)

高崎市の東部にある公園「群馬の森」の一帯は、かつては陸軍の火薬製造所があった所でした。その歴史は古く、明治15年(1,882年)11月、黒色火薬の製造を開始しています。当時陸軍には東京の板橋に火薬製造所がありましたが、増産が必要となり、建設地を探した結果、岩鼻が選ばれたのです。その理由としては、烏川と井野川に沿って舟運の便がよく、水車の動力も得やすいことが挙げられています。

創業時は「東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所」と称していましたが、大正12年(1,923年)4月に「陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所」となり、昭和15年(1,940年)4月には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」と変わっています。昭和20年に終戦を迎え、その歴史に幕を閉じました。

この間、明治38年(1,905年)には日本で初めてダイナマイト製造を開始し、従来の黒色火薬と併せて、軍用火薬、民間用の産業火薬の生産、供給を行ってきました。

大正6年(1,917年)4月、火薬製造所と倉賀野駅との間に、原料や製品を輸送するための鉄道が開通しました。「岩鼻軽便鉄道」という私鉄でしたが、列車の運転と管理は国鉄(当時は鉄道院)に委託する方法を採り、会社の従業員は10人足らずという小さな会社でした。

昭和になると、より威力の強い無煙火薬の製造を始めるなど、軍用火薬製造の比重を高め、製造所も拡充していきました。昭和17年(1,942年)、工場拡張のため製造所北側を通っていた日光例幣使道を付け替えました。また、八幡原火薬庫北側の隣接地を買収し、迫撃砲の装薬(発射薬)を造る工場が建設されました。本来、装薬の製造は陸軍の補給廠の仕事でしたが、戦時中の逼迫した状況下であったため、造兵廠が行うことになったといわれています。

岩鼻村や滝川村など周辺の町村から、多くの人たちが自転車や徒歩で、通勤する光景が毎朝見られました。始業時と終業時に鳴らされた火薬製造所のサイレンは、付近の人たちに時を知らせる役割も果たしていました。終戦当時の製造所は、敷地面積32万5千坪、従業員数3,956人と記録されています。

(原田雅純)