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第26回製粉業で地域振興

ページID:0005150 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第26回写真
木造建築で県下一の高さを誇っていた日本製粉

日本を代表する二大製粉会社が、高崎を舞台にしのぎを削ることになったのは、大正期になってからのことでした。

製粉業は製糸、鉄工業などとともに高崎における工業振興の牽引車の役割を果たしました。

そのころ、日本経済が全般的に膨張していく中で、製粉業も勃興と近代化を推進していた時期でした。そして、進取の気性に富んだ高崎の商人たちが、製粉業という未開拓の分野へ積極的にかかわっていった時期でもありました。当時の高崎の実業家の中には、小麦の主産地を後背地に持ち、交通の要衝にもあること、原料麦の集荷・加工・販売などに最も適した条件を備えていることに着目して、製粉業を興そうとした人たちがいました。

その一つ上毛製粉は「小麦粉ノ製造販売及之レニ附帯セル事業ノ経営ヲ以テ営業」(定款)することを目的に、創立事務所を高崎板紙株式会社内に設けました。

創立委員に井上保三郎、小沢宗平、桜井伊兵衛、桜井仙次郎、松山真哉、清水新一郎ら11人が選ばれ、大正7年(1,918年)3月に開催された創立総会において、取締役社長に井上保三郎、専務取締役に清水新一郎が就任しました。

工場用地は市街地の東、鉄道沿線の弓町に確保されました。地場産業として誕生した同社は大正8年、館林を発祥の地とする日清製粉と合併し、日清製粉高崎工場となりました。

東洋製粉は大正4年(1,915年)に設立された製粉会社ですが、同8年に下和田町に高崎工場を設け、大正9年に日本製粉と合併し、日本製粉高崎工場となりました。こうして、2つの製粉工場が高崎駅を挟んで南北に位置し、高崎を中心に競争を展開することになったのです。

近年では、輸入麦を製粉することから、港湾の隣接地に工場が建てられるようになったため、日清製粉は昭和63年高崎から撤退、日本製粉高崎工場も、平成6年に製粉業を中止し、製粉と同時に行ってきた冷凍食品を専門に製造しています。

製粉工場の建物は独特な風格を持っています。東洋製粉(日本製粉)の建物は、高さ25メートルの木造5階建てで、木造建築として県下一の高さを誇っていました。近代における産業施設として建築され、当時の面影を残してきましたが、今は見ることができません。

(高階勇輔)