ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 分類でさがす > 市政 > 市の概要 > 高崎市について > 第35回大正期における高崎の日刊新聞

本文

第35回大正期における高崎の日刊新聞

ページID:0005226 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第35回写真
「上野新聞」大正10年9月25日

明治38年(1,905年)2月に創刊された高崎の日刊新聞『上野日日新聞』は、大正2年(1,913年)6月、前橋の『上野新聞』に吸収されました。『上野新聞』は同年7月、本社を前橋から市内連雀町に移しました。同じ高崎市内にあった『上野日日新報』が明治45年5月に廃刊していたため、『上野新聞』はこの時高崎でただ1つの日刊新聞となったのです。歴史の浅い『上野新聞』の高崎移転の理由は、長い伝統のある日刊新聞3社(明治20年創刊の上毛新聞、同29年創刊の上州新報、同32年創刊の群馬新聞)が競争する前橋を避けて高崎での独占を果たそうとしたこと、また主筆で重役の小林竹次郎や重役の塚越勝三郎など、高崎に住んでいた人たちの勧めによるものと思われます。

発足当時の『上野新聞』は株式会社組織でしたが、社長で政友会代議士でもあった武藤金吉と、その当時主幹で反政友会から衆議院選挙に立候補を予定していた清水留三郎との確執から、大正4年(1,915年)に解散しました。これを高崎在住の塚越勝三郎が買い取り、発行所も連雀町から田町に移転、個人経営の日刊新聞に変わりました。塚越の積極的な経営により、大正6年には年間発行部数を『上毛新聞』に次ぐ150万部近くまで伸ばしました。

しかし、第一次世界大戦後の不況などのため『上野新聞』の経営状態は悪化、発行部数の低下が続き、大正8年、塚越は鈴木英一に経営権を譲りました。鈴木も同年末には中島喜平に譲り渡しました。中島は発行所を本町3丁目へ移転し、同所に印刷工場も新設しました。その後『上野新聞』は政友会系の日刊新聞として前橋の『上毛新聞』に次ぐ発行部数を回復し、昭和15年県下の日刊新聞6社とともに『上毛新聞』に統合されるまで高崎の日刊新聞のリーダーとしての地位を守り続けました。

大正期、『上野新聞』以外にも高崎で発行されていた日刊新聞に『坂東新聞』がありました。同紙は、明治35年に高崎で創刊された『坂東日報』の系譜を引き、明治45年の創刊当初は週刊でした。経営者は岡田佐市郎で、大正2年末から4年までは日刊新聞でしたが、大正5年から月2回の発行となり、大正9年には廃刊になりました。

昭和に入り、高崎で発行される日刊新聞の数も増え、最盛期の昭和9年には7社にもなりましたが、戦争の激化による言論統制と用紙不足から廃刊が続き、最後まで残った『上野新聞』も昭和15年、『上毛新聞』に統合されました。

(清水吉二)