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第40回上越線の全線開通と八高線

ページID:0005261 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第40回写真
上越線全線開通当時の高崎駅構内

昭和期は「昭和恐慌」といわれた金融恐慌によって幕が開きました。昭和6年(1,931年)にはこの恐慌がピークを迎え、都市、農村を問わず不況は深刻になっていたのです。しかし、こんな時代にありながら高崎は暗い話題ばかりではありませんでした。昭和6年9月に清水トンネルが完成し、待望の上越線が全線開通したのです。東京と新潟を直結するこのルートは、遠く明治の中ごろから計画の動きがありましたが、上越国境の山々に阻まれ、建設には至りませんでした。

大正8年(1,919年)に高崎側から工事が着手されました。鉄道の建設工事は請負工事とするのが一般的ですが、清水トンネルのある高崎―越後湯沢間は難工事が予想されたため、鉄道省の直轄工事とし、最新の建設技術が導入されました。渋川、沼田、後閑と順次開業し、昭和3年10月には水上までが開業しました。当時東洋一の長さを誇っていた清水トンネル(9,702メートル)は、大正11年に着工、昭和4年12月に貫通しました。

昭和6年(1,931年)9月1日、東京と裏日本を最短距離で結ぶ重要幹線である上越線が全線開通しました。上野―新潟間は信越線経由と比較して98キロも短くなり、所要時間も4時間近く短縮され、大幅なスピードアップが実現しました。

同年9月2日、高崎市公会堂で行われた祝賀会で当時の関根市長は、この開通が地方の産業経済上、人文上の発展振興に顕著なものがあり、また国防上からも重要であると語り、高崎市は「高崎線、信越線、両毛線、八高線及び上越線の5幹線の結合地点となり、全国稀に見る交通に恵まれた都市として、市民は常にこれを喜び、且つ大なる誇りと致している」と述べています。

高崎線は、上越線の全線開通に先立つ昭和5年10月、烏川鉄橋のある新町―倉賀野間を最後に全線の複線化が完成しました。

八高線は、東京を経由しないで上信越線と東海道線とを連絡する路線で軍事上の目的も持っていました。この路線は大正12年に着工する予定でしたが、この年に起きた関東大震災のため見送られてしまいました。昭和3年になりようやく工事に着工し、6年7月に高崎から児玉までが最初に開通、昭和9年(1,934年)10月に全線開通しました。

この時の開通により、交流拠点都市高崎の基礎となるJR在来各線の骨格が完成したのです。

(原田雅純)