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第45回俳人鬼城、逝く

ページID:0005267 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第45回写真
西尾市を初めて訪れた鬼城(前列右)と富田うしほ(後列左)写真提供:加古宗也氏

村上鬼城(荘太郎)は、慶応元年(1,865年)7月江戸に生まれ、8歳のとき家族とともに高崎に来ました。若いころ軍人を志しましたが、耳を患い断念。29歳で裁判所の代書人(司法書士)になりました。翌年、正岡子規の門をたたいて本格的に俳句の道に進み、34歳で俳誌『ホトトギス』に初入選しました。以来、明治・大正・昭和を通じて全国で最も優れた俳人の1人として活躍し、高崎では浦野芳雄・田島武夫・中曽根白史など多くの門人が育っています。

鬼城は、重い耳の病に苦しみ、また、妻と2男8女の家族を養わなければならない生活に悩みながら、人間が本来持っている生きる不安をしっかり見据えた、境涯の俳人といわれています。〈闘鶏の眼つぶれて飼はれけり〉〈冬蜂の死にどころなく歩きけり〉などの句は、身の引き締まる思いがします。しかし、句会での発言は歯に衣着せぬ厳しい指摘ばかりでなく、自由闊達な発想を尊重し、ジョークを交えた気取りのない、上州弁丸出しの、とてもユーモラスな面もあったようです。

鬼城一家が昭和2年まで暮らしていた鞘町の住居跡の近くには、〈雹晴れて豁然とある山河かな〉の句碑が建てられ、市民に親しまれています。このほか、市内には12基の鬼城句碑が建てられています。

ところで、鬼城は高崎だけの人ではありません。愛知県西尾市の駅にほど近い民家の庭に、〈ゆるぎなき赤城榛名や常閑忌〉という句碑があります。この句の作者である富田うしほが、「鬼城命日の常閑忌の度に思うのですが、先生の精神は今も私どもの中にあって、並榎のお宅から見えたあの赤城榛名の山のように微動だにするものではありません。」という心を表したものです。

富田は西尾市の印刷業者で、大正3年(1,914年)25歳のとき鬼城に弟子入りし、鬼城を7回も西尾市に招いて直接指導を受け、月刊俳誌「山鳩」「若竹」を発行しました。また、鬼城臨終の時も含めてたびたび高崎を訪れています。富田は、息子潮児が病に倒れ両眼を失明したとき、哀切の句〈盲子の膝なでている袷かな〉をつくりました。潮児も「俳句一筋、鬼城一本」という父の遺志を継いで「若竹吟社」を主宰し、現在も盲聾の二重苦に耐え〈恬淡として乱れまじ浮いて来い〉などの秀句をつくり続けています。

郷土が生んだ偉大な俳人鬼城は、60年前の昭和13年(1,938年)9月17日、並榎町の自宅で73年の生涯を閉じました。

(佐藤健一)