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第47回昭和前期の高崎市長

ページID:0005269 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第47回写真
34歳の若さで市長になった久保田宗太郎

明治33年(1,900年)の市制施行以来の高崎市長は、初代の矢島八郎から生沢・内田・古木・土谷と続きました。市制施行後6人目の市長となった青木道は、大正15年(1,926年)1月から昭和5年1月まで7代目の市長として4年間在職しました。青木は栃木県の出身で、大蔵省から専売局に入り、高崎地方専売局長を勤めました。市長在任中には、昭和2年の塚沢村・片岡村の合併、翌3年の下水道工事の着工のほか、東三条通りなど市内環状十五路線づくりにも着手しました。この中でも塚沢村・片岡村の合併による市域の拡大は、高崎の発展や都市計画の基盤づくりの上で大きく評価されています。また、昭和3年の御大典諸行事や昭和4年に始まったえびす講も、青木の任期中のことでした。

第8代市長の金山鐵吉郎は高崎の出身で、町議や市議、上野鉄道社員、高崎水力電気(後に東京電燈に合併)・草津電気鉄道支配人などを経て昭和5年3月に市長になりました。しかし、市会議員間の対立などから、わずか2か月で退任しています。

第9代市長関根作三郎は、高崎商業会議所第2代会頭、第11代県会議長を務めた連雀町の長老でした。昭和5年5月から7年8月までの間、不況時代の財政運営に苦労しましたが、製糸の碓氷社直営工場の誘致、聖石橋・君ケ代橋の永久橋への架け替えなどを行いました。

第10代の山浦市三は長野県の出身、桐生・前橋・高崎警察の署長を歴任した人物で、昭和7年8月から11年8月まで一期勤めただけでしたが、政争により市政運営に苦心しました。昭和9年11月の陸軍大演習では、昭和天皇の警備にあたって警察出身の力を発揮しました。

昭和11年9月、市民が待望していた全国で最も若い久保田宗太郎第11代市長が誕生しました。久保田は慶応大学を卒業後帰郷し、デパート形式の大黒屋を経営する傍ら、井上房一郎や吉野秀雄らと地域を語る新生会を結成、高崎の都市づくりなどを論じていました。助役を勤めた後、多くの市議から推薦され34歳のとき市長になりました。昭和14年の佐野村の合併や下和田町の総合運動場を完成させました。

昭和15年には、県立高崎工業学校を開校させ、商工業都市への発展を目指した施策も行いました。戦時下の公務にあったことから、終戦後の昭和21年11月に公職追放となり、三期にわたって在職した市長の座から退きました。

(森田秀策)