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第60回6・3・3制教育の始まり

ページID:0005303 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第60回写真
元兵舎を使用していた南中(昭和25年ごろ)
今では珍しい、はだしで行われた運動会

太平洋戦争後、教育の面でも民主的な改革が行われました。昭和22年(1,947年)3月、教育基本法と学校教育法が公布され、63制を柱とする学校制度ができました。同年4月、男女共学の新制中学が各小学校区でスタートし、義務教育が3年間延長されました。しかし、生徒が勉強する校舎も机も足りませんでした。

高崎では、中央・東・北・塚沢の4中学が旧第一国民学校(現在の一中)を共同で使用しました。また、旧三八部隊の建物を改築して、現在のシンフォニーホールあたりに南中が、現在の市庁舎あたりに片岡中と佐野中が誕生しました。岩鼻中は台新田に校舎ができるまで、米軍に接収された旧岩鼻火薬製造所の寮を借用していました。このほか小学校の一部を転用した学校を含めて、どの中学校も午前と午後の二部授業を行わなければなりませんでした。

こうした状況を改善するため、戦後の経済難の中で、結成されたばかりのPTAと高崎市・有識者が用地確保と校舎建設に取り組みました。その結果、塚沢中・片岡中・佐野中が現在の場所に次々と新築移転したため施設にゆとりができ、昭和27年旧市内の中学校の統廃合が行われました。北中・六郷中と中央中の一部が統合して第一中学校になり、旧連隊跡には、東中と中央中の一部で第二中学校、南中と中央中の一部で第三中学校が開校しました。また、昭和28年までに、豊岡・八幡・長野・南八幡・大類・倉賀野・新高尾・滝川・京ケ島・中川の各中学校で新校舎が完成しました。

昭和23年4月、高崎ではすべての公立の旧制中等学校と、佐藤高等技芸学校が新制高校に移行しました。なお、戦時中の国策により昭和20年に廃校となった高崎商業学校は、同窓生や市民の復活運動が実を結び、昭和21年4月から授業を再開していました。

当時は、義務教育終了後すぐに働く人が多い時代でしたから、昭和23年10月に公立高校に定時制が設けられ、社会人も就学することができました。また、戦時中に高崎中学の校舎を借用して始まった夜間の市立高陽中学は、市立高崎高校となり、昭和29年に県立高崎高校に併合され、同校の定時制となりました。

新学制が軌道に乗ったやさきの昭和26年1月、高崎高校は原因不明の出火により校舎の3分の2を焼失しましたが、28年には復旧工事が完了しました。

(佐藤健一)