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第61回高崎市民オーケストラと「ここに泉あり」

ページID:0005304 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第61回写真
九蔵町での「ここに泉あり」のロケ風景

昭和20年(1,945年)11月、敗戦直後の荒廃した世相の中で高崎市民オーケストラは誕生しました。戦前から音楽活動をしていた丸山勝廣が中心となり、戦後のすさんだ心を音楽で癒し、生活に潤いのある文化国家を目指して結成され、井上房一郎が会長になりました。

指揮者には、井上の仲人・画家有島生馬の甥の山本直忠を招きました。長男の直純は当時12歳でした。当初は、楽員8人のアマチュア楽団で、練習場は、東小学校わきの消防団の2階でしたが、まもなく田町の熊井呉服店の2階に移りました。昭和21年9月、その1階に喫茶店「ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック」(音楽の家)が開店、高崎の新しい文化活動の拠点になりました。

昭和21年3月10日、第1回定期演奏会を市立高等女学校講堂で開催、18人の楽員によるモーツァルトのセレナーデの演奏や原智恵子のピアノ独奏・大谷洌子のソプラノ独唱などでした。雪が舞う寒い日でしたが、市内の文化団体「三想会」の後援を得て超満員の盛況でした。

第2回定期演奏会は同年5月、筝の宮城道雄を迎え高崎で昼夜2回、翌日は前橋群馬会館で公演しました。この前橋公演から、「群馬フィルハーモニーオーケストラ」(群響)と改称しました。昭和22年に本格的活動を目指してプロの交響楽団になりましたが、経営は困難でした。音楽の普及と資金確保のため、5月から県内の小中学校を訪問して「移動音楽教室」を始めました。「オーケストラってなんですか」と問われる中で、丸山は協力校を求めて奔走しました。「移動音楽教室」では、当時大学生であった小沢征爾もしばしば指揮をとりました。

昭和27年、高崎出身の映画プロデューサー市川喜一が群響の苦悩と情熱の活動に着目して映画化を企画、丸山の手記をもとに水木洋子が脚本を執筆し、映画「ここに泉あり」が製作されました。監督は今井正、音楽は団伊玖磨、出演は岸恵子・小林桂樹・岡田英次らでした。独立プロのため制作費はわずかで「お弁当はおにぎり二個に沢庵二切れの切なさ」と岸は回想しています。市民の積極的な協力により映画は昭和30年2月に封切られ、全国で300万人を超える観客に感動を与え、群響発展の大きなきっかけとなりました。

昭和34年、「旅する楽団」として小学6年の国語教科書で扱われ、高崎は「音楽のあるまち」として知られるようになりました。

(山口聰)