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第64回戦後の町村合併 その2

ページID:0005307 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第64回写真
市域の推移と合併年月日

昭和28年「町村合併促進法」が施行されると、県が合併の試案をつくりました。大類村は、滝川村や京ヶ島村と合併する案でしたが、大類村には高崎市と合併したいという住民の強い希望がありました。しかし、同じ大類村でも柴崎・下大類地区は、純農村として滝川村や京ケ島村との合併を強く望んでいました。大類村議会が昭和31年9月10日、一票差で高崎合併案を可決すると、合併反対派は村の役職を一斉に辞任し、高崎市に押しかけて反対を申し入れたり、同盟休校して、下大類の福田寺で自習をした生徒もいました。

紛争は続きましたが、同年9月30日、大類村は全地区が高崎に合併することになりました。しかし、このときの話し合いで、柴崎と下大類地区だけは、京ケ島村と滝川村が合併し群南村が発足したときには、その年の12月末までに郡南村に編入することを決めました。

多野郡八幡村は、上信電鉄や道路などによって高崎との交通の便がよく、日常生活上でも関係が深かったため、合併には前向きでした。昭和31年9月30日、全村一致して高崎市に合併しました。

岩鼻村は当初、純農村として滝川村・京ケ島村・大類村との合併を考えていました。その後、倉賀野町・高崎市・群南村などと合併の話があり、結局昭和32年8月1日、綿貫・栗崎地区が群南村に、岩鼻・台新田・東中里・矢中地区が高崎に編入合併することになりました。

倉賀野町は、初めの試案では岩鼻村との合併が考えられていました。その後、「新市町村建設促進法」が施行され、昭和32年に県知事から高崎市との合併勧告が出されました。工業団地誘致や道路・水路の整備など、合併条件の調整に6年間を要しましたが、昭和38年3月31日、高崎市に合併しました。

群南村は、京ケ島村・滝川村が昭和31年9月30日に合併して成立しました。また、群南村成立後に編入することが決まっていた下大類地区が翌32年9月、群南村に編入されました。その後、周辺地域の一部編入や高崎市との境界変更がありました。

群南村には、工業団地の造成や原子力研究所の進出があり、工業化・市街化が進むにつれて高崎への合併の機運が高まり、昭和40年9月1日、高崎市に合併しました。

郡南村との合併や人口増加により、高崎市の人口は17万人を超えました。

(石原征明)