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第68回スポーツ界における高崎勢の活躍

ページID:0005311 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第68回写真
ローマオリンピックの床運動で優勝した相原選手(中央)

昭和20年代の後半になり、高崎市内の高等学校の運動部が全国大会で活躍するようになりました。高崎高校ラグビー部は、昭和28年(1,953年)の第8回国民体育大会(愛媛県)と第10回国民体育大会(神奈川県)においてそれぞれ優勝しました。また、高崎技芸高校(現高崎商科短大付属高校)は、昭和29年全日本高校女子バレーボール大会(宮城県)で優勝しました。

このような全国レベルの大会における好成績は、選手たちの日ごろの努力はもちろんのこと、優秀な指導者に恵まれたこともありました。高崎高校ラグビー部は、富田俊一部長と岡田由重監督のコンビによる指導があり、また、高崎技芸高校バレーボール部は、高橋三郎監督による熱心な指導があったのです。

高崎高校・高崎技芸両校の活躍にとどまらず、高崎出身の選手は世界のスポーツ界でも活躍しました。昭和31年、第16回メルボルンオリンピックには高崎から清水健・相原信行の2選手が出場しました。

清水は高崎高校出身、当時は立教大学の3年生で、水泳の800メートルリレーに出場しました。短距離を得意とし、「高崎の飛び魚」といわれていました。

相原は高崎工業高校出身、当時は日本体育大学の3年生で、体操競技に出場し、床運動で2位となり銀メダルを獲得、相原の活躍もあって日本の体操チームは団体で2位となりました。次の第17回ローマオリンピックにも高崎からただ1人出場し、床運動で優勝、つり輪と平行棒で5位になるなど奮闘し、常勝ソ連を破る日本の団体優勝に貢献しました。こうして日本の体操は、レスリングとともに世界の最高水準に達しました。相原は、高崎市出身者として初めてオリンピックで金メダルを獲得したのです。

相原が体操で世界を舞台に大活躍するようになった背景には、本人の努力はもとより、高工体操部の大橋文夫監督の適切な指導がありました。大橋は、マットワークによる身体の柔軟性を養うことに主眼を置きました。こうした地道な基礎練習を続けることによって、「床運動」と「つり輪」をもっとも得意とするようになったのです。

昭和38年、東京オリンピックの女子体操選手として活躍した白須俊子と結婚、二男の豊もバルセロナオリンピックに体操選手として出場しました。

(西島満)