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第81回福田・中曽根の「上州内閣」誕生

ページID:0005331 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第81回写真
福田赳夫(右)、中曽根康弘(左)

戦前に群馬県選出の国会議員で国務大臣になったのは、中島知久平ただ一人でした。これとは対照的に戦後には、福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三をはじめ、現在まで衆参両院合わせて13人もの議員が国務大臣に任命されています。このうち、1,970年代に福田が、80年代に中曽根が、90年代には小渕がそれぞれ総理大臣となりました。「上州内閣」が3度も誕生したことは「西の山口、東の群馬」と並称され、20世紀の本県における最も輝かしい歴史となりました。

山口県出身の佐藤栄作内閣は、在任期間が7年余りに及び、わが国の憲政史上最長記録でした。佐藤退陣後、その後継者とみられたのが、自由民主党内にあって派閥を率いた福田赳夫、中曽根康弘、田中角栄、三木武夫、大平正芳でした。この5人の実力者は「三角大福中」と呼ばれましたが、上州内閣の誕生は、群馬県民の熱望するところとなりました。

福田と中曽根が「ポスト佐藤」の有力候補者となると、県保守政界は両者をそれぞれ頂点とする2大ピラミッドが形成され、「福」「中」両勢力の競合が相乗効果を生む、2枚岩の団結といわれる保守王国が築かれることになりました。両者は総選挙のたびに、群馬3区という同一選挙区で激しいトップ争いを演じたため、マスコミからは「上州戦争」と呼ばれました。

福田赳夫内閣が誕生したのは昭和51年12月24日でした。福田は戦後最大の不況・激しいインフレ・国際収支赤字転落の三重苦克服と、政治の金権体質の改革を目指し、再三にわたり「世直し」を口にしました。「清新・強力」内閣と称し、ソ連との200カイリ問題円満解決・成田新空港開港・日中平和友好条約の締結・マニラでの福田ドクトリンの表明と着実に実績を上げました。

中曽根康弘内閣は、昭和57年11月27日に誕生しました。中曽根は「戦後政治の総決算」を唱え、防衛費の対GNP比1パーセント枠を撤廃するとともに、電電・専売など公社の民営化と国鉄の分割・民営化を進め、歴代内閣の課題であった行政改革を成功させました。中曽根内閣は、国民の高い支持率に支えられ、5年間の長期政権でした。首相在任期間は、佐藤栄作、吉田茂に次いで戦後3番目の記録となりました。

(手島 仁)