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第1回1900年 高崎市が誕生
市制施行当時の市役所(宮元町・スカイビル付近)
高崎市は、西暦2,000年に市制施行100年を迎えます。1,900年(明治33年)に市制を施行したのは、高崎と福岡県の小倉だけです。小倉は、後に門司や八幡などと合併して北九州市になったので、2,000年に市制施行100年を迎えるのは、日本全国で高崎市だけとういことになります。
高崎が、町から市への昇格運動に乗り出したのは、明治27年(1,894年)でした。町の議会で、町会議員の岡田謹吾から市制施行に関する建議が出され、準備委員会が置かれました。しかし、その年に日清戦争が始まり、それどころではなくなってしまいました。
その後、先進地を視察する準備を進めたこともありましたが、いろいろな事情があって、31年には、町会(町議会)で市制施行の延期が可決され、また後退してしまいました。
人口25,000人以上の町が市になる資格があるとする「市制」が定められたのは、明治22年(1,889年)。高崎がこの条件を満たしたのは、明治24年からでした。しかし、人口が多くなったといっても、財政上の問題や、都市に自治権を与えることは中央政府批判につながるという見方もあり、市になることは、実際にはなかなか難しい面があったのです。
その後、群馬県知事の古荘嘉門が内務大臣西郷従道から、高崎の市制施行に明るい見通しがあることを聞き、それが町当局に伝えられました。作業は急速に進展し、町をあげて市制施行に乗り出して行きました。
明治33年1月、「市制施行稟請書」などの書類が内務省に出されました。高崎が関東地方の要衝にあり、産業・経済・交通などをはじめとし、あらゆる面で都市機能を備えており、市制施行をする資格が十分にあると強く請願したのでした。
運動は実り、「明治33年4月1日ヨリ市制ヲ施行ス」という内務省の告示が出されました。ついに、高崎は市に昇格することになったのです。この時の人口は32,467人、戸数は5,924戸でした。
初代の市長は矢島八郎に決まりましたが、現在のように市民が選挙で選んだのではありません。市制施行後開かれた市会(市議会)で、矢島八郎・松山省・小島弥平の三人が推薦され、そのうち一人を国が決めるという形で決定したのでした。
(石原征明)