本文
渋沢栄一新一万円札発行記念「青い目の人形を抱いた高崎の子どもたち」
企画展概要
今からおよそ100年前、日米親善のためアメリカから高崎の幼稚園に贈られた親善使節人形「サリー・アン」。当時緊張化していた日米関係を改善するため、両国の官民と子どもたちによる人形交流事業が計画されました。昭和初期に始まり、幾多のエピソードを生み、つらく悲しい時代を経ながら、今日に至るまで継続している人形を介した日米交流史を取り上げるとともに、高崎における幼児教育の先駆けとなった高崎幼稚園の歴史を紹介します。
”青い目の人形”、来日。
20世紀に入ってからアメリカ国内では日本人移民に対する排斥運動が激しさを増し、これに伴い日本国内でも反米感情が高まっていました。こうした状況を憂えたアメリカの宣教師シドニー・ルイス・ギューリックは、次世代を担う日米両国の子どもたちの相互理解と友好の促進のため、人形を交換し合う親善交流を呼びかけました。
ギューリックと親交のあった実業家・渋沢栄一は、日本側の受け入れ担当者となって交流事業に深く関わっています。渋沢栄一と言えば、ことし7月3日に発行される新1万円札の肖像に選ばれました。
昭和2(1927)年3月、12,739体の親善使節人形がアメリカから日本に到着し、そのうちの1体「サリー・アン」という名前の人形が5月1日に高崎幼稚園にやって来ました。
5月5日、端午の節句のお祝いも兼ねて「サリー・アン」の歓迎会が開かれました。
”黒い目の人形”、渡米。
親善使節人形を贈られた全国の幼稚園や小学校では1人1銭ずつ募金を集め、同年のクリスマスに合わせて答礼人形をアメリカに贈りました。日本からの人形は伝統的な市松人形で、都道府県や大都市ごとに製作されました。人形には各々、名前やニックネームが付けられ、群馬県から贈られた人形「ミス群馬」には、県知事が命名した「上野絹子」がニックネームとなりました。
答礼人形「ミス群馬」/写真:前橋市教育資料館蔵
黎明期の幼児教育ー高崎幼稚園の誕生ー
日本の幼稚園は、1876(明治9)年開設の東京女子師範学校付属幼稚園に始まります。その後、幼稚園開設の動きは全国に広まり、1888年(明治21)年に高崎幼稚園が開園しています。今回の企画展では設立当時の文献資料のほか、明治・大正・昭和にかけて出版され、実際に園で使われていた童話・絵本・歌集などを展示します。