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大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公 小栗上野介忠順

新着情報 what's new
2026年3月19日
高崎市役所中2階ロビーにて小栗上野介企画展を開催します。
開催期間:3月23日(月曜日)~4月24日(金曜日)
2026年3月19日
2027年 大河ドラマ「逆賊の幕臣」の新たな出演者が発表されました。<外部リンク>
2026年3月19日
小栗上野介忠順の特設ページを公開しました。
本市ゆかりの幕臣・小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)

小栗上野介忠順は文政10年(1827年)、神田駿河台(現在の東京都千代田区)で旗本の家の長男として生まれました。若い頃から才覚を表した小栗は、34歳で日本初の遣米使節の目付としてポウハタン号に乗り込み渡米。続けてアフリカ、アジアと巡り、約9か月をかけて視察しました。
帰国後は外国・勘定・江戸町・歩兵奉行など幕府の要職を歴任。世界で得た見聞をもとに、日本の近代化に向けた多くの業績を残しました。
42歳で職を解かれた小栗は、小栗家の領地の一つである現在の倉渕町権田に、妻子や家臣らと共に隠せいしました。しかし、新政府軍により無実の罪を着せられ、倉渕町水沼の烏川河川敷で斬首(ざんしゅ)されました。
| 年代(年齢) | 主な出来事 |
|---|---|
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1827年 (1歳) |
神田駿河台(現在の東京都千代田区)で小栗家の長男として生まれる |
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1843年 (17歳) |
初めて江戸城へ登城し、将軍にお目見えする |
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1855年 (29歳) |
父が病死。小栗家の跡目を相続する |
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1859年 (33歳) |
本丸御目付になる |
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1860年 (34歳) |
日本初の遣米使節で目付として渡米。続けてアフリカ、アジアを巡り帰国。帰国後、外国奉行になる |
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1862年 (36歳) |
勘定奉行勝手方、江戸町奉行、歩兵奉行など、幕府の要職を歴任する |
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1865年 (39歳) |
小栗が提言した横須賀製鉄所(造船所)の建設開始 |
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1868年 (42歳) |
明治維新により、1月に全ての役職を罷免され、権田村(現在の倉渕町権田)への土着を決意。3月に権田村へ到着し、東善寺で仮住まいを始める 閏4月6日(現在の5月27日)倉渕町水沼の烏川河原で、明治新政府軍に斬首される |
日本の近代化につながる小栗の功績

ワシントン海軍造船所の遣米使節一行(前列右から二人目が小栗上野介)
歴史の表舞台では「明治維新の敗者」として語られることが多い人物ですが、小栗が推進した数々の政策やインフラ整備は、そのまま新政府に引き継がれました。そのため、現在では「近代日本の礎を築いた真の立役者」「明治の父」として非常に高く評価されています。
主な功績
横須賀造船所の建設

現存する1号ドック(提供:米海軍横須賀基地)
万延元年(1860年)の遣米使節でワシントン海軍造船所を見学した小栗は、日本の近代化には造船所の建設が急務であると考えました。文久3年(1863年)に造船所の前身となる製鉄所建設案を幕府に提出、幕閣などから反対論もありましたが、慶応元年(1865年)11月15日に横須賀製鉄所の建設が始まります。没後の明治4年(1871年)に1号ドック(現存)が完成し、横須賀造船所と改称されます。
日本初の西洋式火薬工場の建設
元治元年(1864年)鉄砲製造の責任者(大小砲鋳造事務取扱)に任命された小栗は、組織の合理化や当時多発していた製造不良の低減に着手しました。
同時に、欧州の鉄製大砲に対抗するため、従来の青銅砲から鉄製大砲製造への転換に舵を切ります。慶応2年(1866年)に滝野川反射炉が完成すると、敷地内にベルギーから購入した弾薬火薬製造機械を設置し、最新の西洋式兵器・弾薬を一貫生産する拠点としました。これが、後の日本初の本格的な西洋式火薬工場の源流とされています。
フランス式軍隊の整備

フランス軍事顧問団
小栗は、軍事力強化のためフランス式軍隊の導入を計画し、慶応3年(1867年)にフランス軍事顧問団を招聘しました。幕府陸軍をフランス軍人に指導させ、歩兵・騎兵・砲兵を組み合わせた近代的な「三兵戦術」を導入しました。また、訓練と並行して、フランスから大量のシャスポー銃(当時最新鋭のボルトアクション銃)などを輸入し、装備の近代化を図りました。
フランス語伝習所の設立

フランス語伝習所の第1期・2期生(2列目右から3人目が小栗上野介の養嗣子、又一)
軍隊を強くするためには、最新の武器だけでなく、言葉が理解でき、技術を習得できる人材が不可欠であると考えた小栗は、元治2年(1865年)、フランス式軍制の導入に先立って「横浜仏蘭西(フランス)語伝習所」を設立します。
フランス語伝習所では、語学だけでなく、数学、地理学、歴史学、幾何学、馬術そして軍事学をフランス語で教える実学重視のカリキュラムを採用しており、卒業生の多くが幕府崩壊後も日本の近代化に大きく貢献しました。
日本初の株式会社(商社)の建設
当時の幕府は、開港によって海外から安い製品が流入し、国内の物価が高騰するという経済危機に直面していました。小栗は「外国資本への対抗」、「物価の安定」、「近代化資金の調達」を目的に商社の設立を急ぎました。慶応3年(1867年)、フランスのロッシュ公使らの助言を受け、大阪・江戸の豪商たちから100万両(現在の価値で数百億〜数千億円規模)という巨額の出資を募り、「兵庫商社」を設立しました。
西洋の経済システムを説明する言葉がなかった当時、小栗が「Company」という組織を指す言葉として、「商社」という訳語を当てたと言われています。
倉渕で過ごした日々
小栗が倉渕町で過ごしたのは65日という短い期間でしたが、その功績は今も倉渕に残り、地元住民に受け継がれています。
東善寺に仮住まいをしていた小栗は、倉渕町権田にある観音山に邸宅の建設を計画し、田畑と用水路を開発しました。邸宅は完成には至りませんでしたが、屋敷跡には礎石が残されています。また、沢水が細く水田耕作に困っていた小高地区の村人のため、小栗はフランス式測量技術で用水路を整備。この「小高用水」は、現在も小高地区を潤しています。








