ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

上野三碑:山上碑及び古墳

ページID:0004461 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

特別史跡 山上碑及び古墳

所在地:高崎市山名町字山神谷2104

指定年月日
史跡:大正10(1921)年3月3日
特別史跡:昭和29(1954)年3月20日

解説

山上碑は飛鳥時代の681年に建てられたもので、完全な形で残っているものとしては日本最古の石碑です。石をあまり加工しないで使っており、朝鮮半島の新羅[しらぎ]の石碑(6世紀)に類似しています。

碑文には、放光寺[ほうこうじ]の長利[ちょうり]という名の僧が母のために石碑を建てたことと、長利の母方、父方双方の系譜が記されています。長利の母である黒売刀自[くろめとじ]は、ヤマト政権の直轄地である佐野三家[さののみやけ](屯倉[みやけ])の管理者であった健守命[たけもりのみこと]の子孫で、父である大児臣[おおごのおみ]は、赤城山南麓の豪族とみられる新川臣[にいかわのおみ]の子孫です。

前橋市総社町にある山王廃寺[さんのうはいじ]から「放光寺」の文字を刻んだ瓦が出土しているため、長利が勤めた放光寺は山王廃寺であると推定されています。放光寺が東国有数の大寺院であったことや、仏教が当時の先進的な思想であったことから、長利はかなりの知識人であったと思われます。

こうしたことから、長利は母である黒売刀自を供養するとともに、上野国の有力豪族の子孫であり、大寺院の僧でもある自らの存在を後世に伝えるために碑を建てたと考えられます。

碑文は、すべて漢字で書かれていますが、日本語の語順で読むことができます。現在につながる日本独自の漢字の使用法が確認できる非常に貴重な史料です。

このように、山上碑からは、ユーラシア大陸から伝わった漢字文化と仏教信仰が日本の古代社会に根付いていく様子をうかがい知ることができます。

山上碑にみる人物関係の画像
山上碑にみる人物関係

前橋市山王廃寺から出土した 瓦に刻まれた「放光寺」の文字の画像
前橋市山王廃寺から出土した
瓦に刻まれた「放光寺」の文字
(所蔵・提供:前橋市教育委員会)

碑の現状

大きさは高さ111センチ、幅47センチ、厚さ52センチ。硬質の輝石安山岩[きせきあんざんがん]を使用し、前面の平らな部分に縦書き4行で53字が刻まれています。風化のため、一部判読しにくい部分があります。

銘文

銘文の画像

読み方

辛巳歳集月[かのとみ(しんし)としじゅうがつ]三日に記す。佐野三家[さののみやけ]を定め賜える健守命[たけもりのみこと]の孫の黒売刀自[くろめとじ]、此れ新川臣[にいかわのおみ]の児の斯多々弥足尼[したたみのすくね]の孫の大児臣[おおごのおみ]に娶[とつ]ぎて生める児の長利僧[ちょうりのほうし]が、母の為に記し定むる文也。放光寺[ほうこうじ]僧

現代語訳

辛巳年(天武天皇十年=西暦六八一年)十月三日に記す
佐野屯倉をお定めになった健守命の子孫の黒売刀自。これが、新川臣の子の斯多々弥足尼の子孫である大児臣に嫁いで生まれた子である(わたくし)長利僧が母(黒売刀自)の為に記し定めた文である。放光寺の僧。

*用語
刀自(とじ)-女性の尊称/臣(おみ)・足尼(すくね)-男性の尊称

山上[やまのうえ]古墳

山上古墳は、山上碑の東隣にある直径15mの円墳です。中心には南に開いた横穴式石室(奥行き7.4m)があり、地元産の凝灰岩[ぎょうかいがん]の切石を組み、仕上げてあります。こうした切石積み石室は、飛鳥時代(7世紀)につくられたもので、碑に近接することから黒売刀自の墓所と推定されます。

ただし、本古墳は7世紀前半から中頃のもので、山上碑が建てられた時期(681年)よりも数十年古いと考えられます。このことから、もともとは黒売刀自の親の墓として造られ、後に黒売刀自が追葬[ついそう]されたのでしょう。

山上古墳墳丘および石室断面の画像
山上古墳墳丘および石室断面

山上古墳の現状の画像
山上古墳の現状

山上古墳の切石積みの石室の画像
山上古墳の切石積みの石室