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本市ゆかりの幕臣・小栗上野介
本市ゆかりの幕臣・小栗上野介
横須賀の造船所建設をはじめ日本の近代化に大きく貢献し「明治の父」ともいわれる幕臣・小栗上野介忠順(ただまさ)。無実の罪を着せられ、隠せい先の倉渕町で非業の死を遂げた小栗は、本市にもゆかりのある人物です。
2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」では、小栗が主人公として描かれることが決定。倉渕町をはじめ市内各地で喜びや期待の声が上がっています。
年代(年齢) | 主な出来事 |
---|---|
1827年(1歳) |
神田駿河台(現在の東京都千代田区)で、小栗家の長男として生まれる |
1843年(17歳) | 初めて江戸城へ登城し、将軍に御目見えする |
1855年(29歳) | 父が病死。小栗家の跡目を相続する |
1859年(33歳) | 本丸御目付になる |
1860年(34歳) |
日本初の遣米使節で目付として渡米。続けてアフリカ、アジアを巡り帰国。帰国後、外国奉行になる |
1862年(36歳) |
勘定奉行勝手方、江戸町奉行、歩兵奉行など、幕府の要職を歴任する |
1865年(39歳) |
小栗が提言した横須賀製鉄所(造船所)の建設開始 |
1868年(42歳) |
明治維新により、1月に全ての役職を罷免され、権田村(現在の倉渕町権田)への土着を決意 3月に権田村へ到着し、東善寺で仮住まいを始める 閏4月6日(現在の5月27日)倉渕町水沼の烏川河原で、明治新政府軍に斬首される |
日本の近代化につながる小栗の功績
小栗上野介忠順は文政10年(1827年)、神田駿河台(現在の東京都千代田区)で旗本の家の長男として生まれました。若い頃から才覚を表した小栗は、34歳で日本初の遣米使節の目付としてポウハタン号に乗り込み渡米。続けてアフリカ、アジアと巡り、約9か月をかけて視察しました。
帰国後は外国・勘定・江戸町・歩兵奉行など幕府の要職を歴任。世界で得た見聞をもとに、日本の近代化に向けた多くの業績を残しました。
42歳で職を解かれた小栗は、小栗家の領地の一つである現在の倉渕町権田に、妻子や家臣らと共に隠せいしました。しかし、新政府軍により無実の罪を着せられ、倉渕町水沼の烏川河川敷で斬首(ざんしゅ)されました。
倉渕で過ごした日々
小栗が倉渕町で過ごしたのは65日という短い期間でしたが、その功績は今も倉渕に残り、地元住民に受け継がれています。
東善寺に仮住まいをしていた小栗は、倉渕町権田にある観音山に邸宅の建設を計画し、田畑と用水路を開発しました。邸宅は完成には至りませんでしたが、屋敷跡には礎石が残されています。また、沢水が細く水田耕作に困っていた小高地区の村人のため、小栗はフランス式測量技術で用水路を整備。この「小高用水」は、現在も小高地区を潤しています。
倉渕地域に残る関連史跡
倉渕地域にある関連史跡を一部ご紹介します。
小栗上野介顕彰会の会長にお話を伺いました
高崎市小栗上野介プロジェクト推進協議会を発足
NHK大河ドラマの放送決定を受け、市内の関連史跡を訪れる観光客の増加が見込まれるため、地元の有識者をはじめとする推進協議会を発足しました。
初会合が開かれました
4月30日、同協議会の初会合が行われました。高崎観光協会や倉渕商工会、小栗上野介顕彰会などから13人が出席。小栗上野介にちなんだ土産品の開発を県内から広く募集する方針が決まった他、関連史跡に係る環境の整備についても検討を進めていくことが決まりました。さらに、くらぶち英語村や倉渕小学校の生徒にパンフレット翻訳や同年代の観光客が訪れた際の観光ガイドについても協力を依頼することで、若年層にも関心を求める意見もありました。
また、同会の会長に高崎観光協会理事長の安藤震太郎さん、副会長に顕彰会会長の市川平治さん、監事に市立倉渕小学校校長の阿部夏美さん、高崎観光協会副理事長の岡田恵子さんが選任されました。第2回の会合は6月上旬に開催される予定です。
小栗まつりが開催されます
小栗上野介顕彰会は、毎年5月下旬に「小栗まつり」を開催しています。問い合わせは、倉渕支所地域振興課内同顕彰会事務局(電話027-378-3111)へ。
会場へのアクセスやイベント内容など詳しくは、小栗まつりのチラシ [PDFファイル/1.17MB]でご確認ください。
日時
5月25日(日曜日)午前10時から
会場
倉渕小学校、東善寺(倉渕町権田)ほか
問い合わせ先
観光課 電話027-321-1257